もずのわくわく劇場日記 No.155-5 エリザベート


[闇が広がる]

さてそれからおよそ、10年の時は流れた。
皇太子ルドルフもやがて成人し、すっかりたくましい青年となり、自分なりの考えを持つようになっていた。

アンサンブル・ローズのショーでは時間の関係で、ヨーロッパの歴史的な流れの場面が大幅に編集されているのだが、当レポートではその部分をカットしてしまうと、物語のストーリーが不明なものになってしまうので、少々解説して置きたいと思う。しばらくの間、お付き合いを願います。

1848年3月13日(江戸・嘉永元年)、オーストリア帝国の都ドナウ湖畔のウィーン。領邦議会議事堂に押し寄せた学生や労働者達は、検閲を廃止し、出版の自由を! 自主憲法を制定せよ! 皇帝は退位せよ! フランツ・ヨーゼフ大公を新皇帝に! と口々に叫びながら強行突入しようとした。それに恐れをなした政府は、軍隊に出動命令を発し、その隊長が発砲命令を下し、無防備な民衆に実弾を浴びせると言う事件が起こった。これが世に言う三月革命であり、ウィーンを半年に渡って荒廃させる事になった。

この事がキッカケで、後の皇太子・ルドルフの父、フランツ・ヨーゼフは1848年12月2日(江戸・嘉永元年)、
弱冠18歳と言う若さで民衆からの支持を受け、オーストリア皇帝となった。フランツ・ヨーゼフは幼少の頃より、母・ゾフィー大公妃の命令でイタリアのラデッキー将軍に託され、皇帝となるための英才教育と軍隊での経験を積まされてたのである。

オーストリア帝国と言うのは多民族国家であり、母国語のドイツ語、教養語のフランス語、ハンガリー語、チェコ語、イタリア語が飛び交うお国柄であり、当然統治は非常に難しい。中でもハンガリー人は三月革命でも最も扱いがむずかしく、ハプスブルク王朝に対して徹底的に抵抗したのである。

新皇帝・フランツ・ヨーゼフは、1848年10月(江戸・嘉永元年)の三月革命の終息後、懐柔政策を余儀なくされたが、まだその政策にも不満を抱くハンガリー人・急進派たちは、地下にもぐり活動を続けていた。しかし優れた指導者もなく、また統一した理念を掲げる事ができず、急進派は民衆からの支持を失っていたのだった。

1849年10月6日(江戸・嘉永2年)、皇帝・フランツ・ヨーゼフの名のもと、ハプスブルク王朝にかつて仕えながら裏切り、反逆したマジャール人の要人100人以上を射殺、もしくは首をはねると言う処刑事件が起き、ハンガリー人は「血に染まった若き皇帝」と言って皇帝・フランツ・ヨーゼフに対し憤激。この事が後々ハプスブルク王朝を悲劇へと招く事になる。

1850年になるとオーストリア帝国内は落ち着きを見せるようになった。ところがだ。

1853年2月18日(江戸・嘉永5年)、皇帝フランツ・ヨーゼフはウィーンで散歩中に、ハンガリー人のテロリスト・ヤーノシュ・リベーニによって襲われた。ハンガリー人のテロリスト・ヤーノシュ・リベーニは「コッシート、万歳!」、「ハンガリーを共和国に!」と叫びながら立ち止まったフランツ・ヨーゼフへ鋭く光るナイフを向けて、物影から飛び出した。

フランツ・ヨーゼフはたまたま近くにいた女性が、キャーッ! と叫んだので振り返り、幸い致命傷は避けられたのだが、テロリストのナイフは、首から胸へと突き刺さり、血みどろになったフランツ・ヨーゼフはその場に倒れ込む! あわてて警護に当たっていたオルドン武官は犯人を取り押さえようとするが、テロリストのナイフは続いてフランツ・ヨーゼフの後頭部へ突き刺さる!

その場に通りがかった肉屋のヨーゼフ・エッテンライヒさんが、事の次第を見て取り、オルドン武官の助っ人に入り、やっとの事でハンガリー人のテロリスト・ヤーノシュ・リベーニから凶器のナイフをもぎ取り、取り押さえた。それにしてもさすがに皇帝フランツ・ヨーゼフだね、自分が襲われてると言うのに言う事がカッコイイ! 何て言ったかって?

「彼を殴ってはいけない。殺したりしてはいけない!」ですと。

まぁ、自分でもいつかこう言う事があると、自覚してたんだろうね。100人以上の人を処刑したわけだし、恨みを買うのは当たり前。しかし、フランツ・ヨーゼフの気持ちを代弁すれば、「人としてはむごい事だが、皇帝としては職務を全うしたのだ。第一、ゾフィー皇太后の命令なんだもん、逆らえないじゃん? 悪いとは思ったけど、仕方なかったんだよぅ・・・」ってところなんじゃない?

ところがだ、このハンガリー人のテロリスト・ヤーノシュ・リベーニが持っていたナイフ、ものすごい安物のナイフだったそうで、切れ味が悪い。しかも不潔と来てた。(笑)

医者に運び込まれた時、皇帝・フランツ・ヨーゼフの後頭部の骨が陥没していた。刺したと言うよりも、思いっきり殴ったと言う方が正しいかもしれない。さらに安物の不潔なナイフで刺された傷口は、化膿して腐り、完治するまでに実に一年近くもかかったと言う。ハンガリー人の恨み、おそるべし・・・

もっとも、皇帝・フランツ・ヨーゼフはこの事件以来、ウィーン市民には一種の同情心が出て、若き皇帝への親しみが沸いたと言うから、怪我の功名と言うものか。

1853年2月18日(江戸・嘉永5年)、フランツ・ヨーゼフ暗殺未遂事件のあった日は、そもそもバイエルン公爵の長女・ヘレーネとのお見合いをするために来ていたのだが、当然事件発生でお見合いは延期となった。フランツ・ヨーゼフの傷も多少は良くなったので、半年後の8月18日、皇太后・ゾフィーの仕込みで改めてお見合いをする事になった。おりしもこの日は皇帝・フランツ・ヨーゼフ満23歳の誕生日の日である。

で、お見合いはしたのだが、何しろ皇帝陛下のフランツ・ヨーゼフ、暴漢に頭を刺されて後頭部陥没してたでしょ? そのせいなのかどうかは知らないけども、自分のお見合い相手のバイエルン公爵の娘・ヘレーネには目もくれず、その妹のエリザベートに一目ぼれ。エリザベートこの時16歳なり。フランツ・ヨーゼフより7つも年下の小娘に向かって「ボ、ボクのお嫁さんになってくれない?」 とのたまわく。

そう言われたエリザベートは、「えぇーっ! マジィ? 皇帝陛下のお妃ィ〜? 超ヤバくなぁ〜い? でもまぁいっか♪」みたいなノリかどうかは知らないが、プロポーズを受けてしまった。

しかし、これまで三月革命や処刑騒動、皇帝暗殺未遂事件など、暗い話題ばかりのウィーン市民には、皇帝陛下御成婚のニュースは、唯一明るい話題であり、エリザベートも今で言うならイギリスのチャールズ皇太子とダイアナさんみたいな感じで市民には歓迎されたのであった。

しかし、政治的な視点で言うと、市民から望まれて皇帝に即位したフランツ・ヨーゼフは、皇帝絶対主義、検閲、自由な出版の禁止と、革命前の状態に戻してしまった。いやこれまで以上に強大な権力を握り、皇帝一人がすべてを決めると言うように、権力を自分に集中させていた。とは言っても、それもこれもすべて「ハプスブルク家の唯一の男?」と陰口を叩かれる「皇太后・ゾフィー」にコントロールされてした事なのである。

と言う訳で、長年に渡りハプスブルク王朝のオーストリア帝国支配に、うんざりしていたハンガリー人、特に急進派と言われる活動家たちは、打倒・ハプスブルク家、ハンガリー共和国としての独立をもくろんでいたのだ。いや、いや、そればかりではない。やはりオーストリア帝国の支配下にあるイタリアでも、独立運動が始まった。しかもこの独立運動を影で操っていたのは、フランスの皇帝・ナポレオン三世である。

オーストリア皇帝・フランツ・ヨーゼフがイタリアに視察に訪れた時には、どこの村や町へ行っても歓迎される事はなく、無視された。それはイタリア人たちが、オーストリア帝国の支配を嫌っていたために、フランツ・ヨーゼフ並びにオーストリア帝国を拒絶する暗黙の抵抗なのである。

そして、ロシア皇帝・ニコライ一世はトルコに侵略を開始し、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに加勢しろと持ちかけて来る。しかしフランツ・ヨーゼフは現状維持の平和政策をとっていたので、ロシア帝国との同調は棚上げしたままにしたが、ニコライ一世は執拗にトルコ侵略に加勢しろと言って来た。

オーストリア皇帝・フランツ・ヨーゼフは、エリザベートと結婚して新婚ホヤホヤ、しかし、フランスのナポレオン三世、ロシアのニコライ一世、ハンガリーとイタリアの独立運動の鎮圧と、外交、統治に奔走する日々。甘い新婚生活など楽しむゆとりはまったくなかったのだ。

疲れ果てて宮殿に戻れば、新妻・エリザベートと皇太后・ゾフィーの嫁と姑の確執、冷戦。オーストリア帝国を取り巻く状況は非常に悪い。もしこんな時にハプスブルク家で、二人の女が内紛を起こしたとなったらば、臣民に与える影響は多大であり、外敵から着け込まれる口実を与え、六百年以上続くオーストリア帝国及び、ハプスブルク家は崩壊の危機にさらされるのだ。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの苦悩は計り知れない。

そんな頃、ロシア帝国・ニコライ一世は1853年7月(江戸・嘉永5年)、トルコ領のモルダヴィアとワラキア地方に踏み入り占拠。トルコはロシア帝国へ宣戦布告、ついにクリミア戦争の勃発となった。そして1854年1月(江戸・安政元年)、ロシア帝国の南下を防ぐために、イギリスとフランスの連合軍がトルコと同盟を結び、3月にはロシア帝国 VS トルコ・イギリス・フランスと言う図式で開戦の火ぶたが切って落とされた。

こうなると困ったのはオーストリア帝国、皇帝フランツ・ヨーゼフの立場である。かねてより加勢しろとロシア皇帝・ニコライ一世から要請を受け、中立の立場を守っていたのだが、かつて三月革命のおり、暴徒の鎮圧のためにあれほど貴国に協力したではないかと言われ、オーストリア帝国は揺れた。

ウィーンのハプスブルク家では閣議が開かれ、ロシアに協力すべきだと言う者と、ロシアがトルコ侵略した後、バルカン半島を侵略し、ドナウ川を渡河してくるのは必至であり、それを防ぐためにロシア帝国に対し、攻撃すべきだと言う者の意見が真っ二つに分かれ、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは国の舵取り、決断を迫られる事になった。

皇帝フランツ・ヨーゼフは、ロシアに援軍を・・・ と言いかけた時、会議に同席していた皇太后・ゾフィーが立ち上がり言い放った。「わたくしはロシアが大嫌いです! 良いですね、皇帝閣下。」

フランツ・ヨーゼフは何も言えぬまま、オーストリア帝国の舵は、「対ロシア帝国」へと切られた。
そして5月、オーストリア帝国軍は30万の兵を国境のガリツィア、ブコヴィナ、トランシルバニアへと配備した。だが、その目的はあくまでロシア帝国をけん制するためのもので、オーストリア軍はロシアに対して積極的な攻撃を仕掛ける事はなく、態度の表明をするにとどまった。

これはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフが、皇太后・ゾフィーの意見を汲み取りながら、自分の政策を通したがための中途半端な行動であった。こう言う事をされるとロシアは怒る。しかも、オーストリアの煮え切らない態度表明は、トルコ・イギリス・フランスの連合国にとっても、歓迎されるものではなかった。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは、まだこの時点でドイツ・ベルリン政府の策謀、ワナにはまっていた事に気がついていなかったのだ。ドイツ・ベルリン政府の仕掛けたワナとは?

ロシア・オーストリア・プロイセンの三国のキリスト神聖同盟なるものがある。キリスト教徒の我々がイスラム教徒を退治すると言う大義名分のもとで交わされた同盟関係である。このプロイセンと言うのはドイツ連邦の中の小国であり、そのプロイセンは、クリミア戦争にオーストリア帝国が参戦せず、あくまでも中立の立場を通すべきだ。そうでないと、この神聖三国同盟が崩壊すると言い、フランツ・ヨーゼフに意見を述べていた。

しかし、プロイセン・ベルリン政府の本当の狙いは、ロシア帝国とオーストリア帝国の仲を裂き、強大なオーストリア帝国を孤立させ、ロシア帝国をトルコ・イギリス・フランスの連合国に叩き潰させ、プロイセンがドイツ全体の盟主に着く事だったのである。まったく油断もすきもない話だ。

結局、オーストリア帝国皇帝・フランツ・ヨーゼフは、1854年12月(江戸・安政元年)になってイギリス・フランスと協定を結び、ロシア帝国との関係を破棄したのだが、あまりにも日和見的なこのフランツ・ヨーゼフの政策はどこの国からも評価されることはなかった。

1855年3月2日(江戸・安政2年)、ロシア帝国皇帝・ニコライ一世が急死し、9月11日にクリミア半島のロシア側、セバストポール要塞が激しい連合国との攻防の末陥落。これによりクリミア戦争の決着はほぼ決まり、翌年1856年2月(江戸・安政3年)にパリで講和条約が結ばれ、ロシア帝国は占拠したトルコ領のモルダヴィア、ワラキアを返還し、ドナウ川の航行は回復、黒海などは自由海域となり、クリミア戦争は終結したのだ。

この事がもとで、ロシア帝国はオーストリア帝国に対して憎悪をいだいた。同盟の盟約をないがしろにし、敵対したあげく連合国に加担するとはいかなる事ぞ! もはやオーストリア帝国とロシア帝国の亀裂は修復不可能なものとなった。しかし、連合国側の方も、ロシアを攻撃せずにどちらが勝つか見極めた後、連合国に参加したとオーストリア帝国は思われ、非常に厳しい評価をされ、オーストリア皇帝・フランツ・ヨーゼフはどこの国からも孤立してしまった。

ただ、プロイセンのビスマルクとサルディニア王国のカヴァール首相だけは、とても喜んだ。なぜって? それはビスマルクとカヴァール首相は手を組んで、こののちハプスブルク王朝に、運命の戦いを挑む事になるからさ。

♪すべての不幸をここに始めよう!
 ハプスブルクの栄光の終焉
 誰一人知らぬ帝国の滅亡!
 サイは投げられたお前の過ち
 


 オーストリア帝国皇帝・フランツ・ヨーゼフ君、
 今こそこの私の力を思い知るがよい。

 エリザベートと最後のダンスを踊るのは

 ふふふ・・・


 この私、黄泉の国の帝王トート様なんだよ。


 あははは・・・







[トート閣下の策略]へとつづく・・・


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